
その6 「注文の多いワイン・バー」もうすぐクリスマスという寒い日の夕方のことでした。猛吹雪の中、人里離れた山を二人のハンターと一匹の猟犬が風に逆らって歩いていました。夕方といっても、周りは真っ暗です。昼過ぎから降り始めた雪は、陽が傾くに従って勢いを増し、今では1メートル先も見えません。二人のハンターには、吹雪に吹き消されそうなほど弱々しく光る懐中電灯が一つあるだけ。それを頼りに、雪の白と夜の黒の僅かな隙間を這うように歩くのでした。 吹雪の音に混じって、ごく微かに鐘の音が聞こえてきます。村はずれにある寺が打つ6時の時鐘でしょう。風が渦を巻いているので、二人のハンターには、どの方角から聞こえるのか見当もつきません。
鐘の音が合図でもあるかのように、それまで元気で先頭を歩いていた猟犬が右の後足を引きずり始めました。呼吸も急に弱々しくなり、今にも止まりそうです。 「おい、どうする? この犬、担いで帰るか?」 「馬鹿言うな。こっちが死にそうなのに、そんな余裕はあるもんか」 「そうだな」 「ああ、ここに置いていくしかあるまい」 「仕方ないな」
二人は、読み終わったスポーツ新聞を捨てるように、猟犬をそのまま置き去りにすると、村に向かうと思われる方向へ進みました。 「おい、あそこに家があるぞ」 「本当だ」 「助かったぁ」 二人は、荷物を全て捨て、深く積もった新雪を泳ぐようにして、灯りに突進しました。 たどり着いたのは立派な建物でした。樫の一枚板で作ったドアにはガス燈が灯り、『ワイン・バー山猫亭』と彫り上げた看板がかかっていました。看板の下には、ワインバーのお約束、ディスプレイ用に空き瓶がゾロッと並べてあります。
「おい、中へ入ろう」 「何か食わせてもらえるに違いない」 重いドアを開けて中に入ると、中は暖かく、フカフカの絨毯が敷いてありました。正面には小さな黒板があり、こう書いてありました。 『ようこそ、山猫亭にお越しいただき、ありがとうございます。左のドアにお風呂があります。まずは、お風呂に入り冷えた体を温めて下さい』 「これはありがたい」 「なかなかいいサービスじゃないか」 「さっそく、風呂に入ろう」 十分暖まった二人が風呂から出ると、脱いだ服がありません。代わりに、真新しい浴衣が用意されていました。浴衣の上には一枚の紙が乗っていました。 『この浴衣を着て、奥のドアにお進み下さい』 浴衣には、香料を染みこませてあるのか、チョコレートとウイキョウの香りがします。 「さっきから考えてたんだけど、俺達の状況って、宮沢賢治の『注文の多い料理店』にそっくりだよなぁ」 「なんだい、その話? 聞いたことないぞ」 「有名な童話なんだけどね。とにかく、犬を置き去りにするところから、『山猫亭』って名前、風呂へ入れと勧めるところまで、全部同じなんだ」 「じゃあ、宮沢賢治の話では、この先どうなるんだ?」 「塩とバターを体に擦り込めと言われるんだ」 「何のために?」 「山猫が食うために決まっているだろ」 「えぇ? でも、浴衣を着て下さいって書いてあったじゃないか」
「服のまま、食ってしまうつもりかもな。そう言えば、この浴衣、ウイキョウの匂いが 「おいおい、よしてくれよ。その話、最後はどうなるんだ?」 「食われる寸前に、捨てたはずの犬が山猫と格闘して、ご主人様二人を助けるんだ」 「よくできた話だけど、あの犬じゃあ助けに来そうにないな」 「おい、逃げよう」 一人がドアのノブを回そうとしましたが、1ミリも動きません。窓も開きません。 「だめだ、外へ出られない。全部、鍵がかかっているよ」 「えっ? じゃあ、山猫に食われるのかよぉ?」 二人が震え上がったときでした。ジジジと音を立てて、冷蔵庫の上のパソコンがメッセージを表示しました。 『ワインラックからムートン1982年を1本持ってきて下さい』
ワイン好きの悲しい習性なのでしょう、男は、命が助かるかどうか判らない状況なのに、「凄いワインがあるんだなぁ」と感心しながら、ムートンを持ってきました。保存状態が良く、目減りがほとんどありません。ジョン・ヒューストンの描いた絵もピカピカです。ジジジを音がしたかと思うと、新しいメッセージが出ました。 『ムートンのコルクを抜いて、デキャンタージュして下さい』 男は、ラギオールのソムリエ・ナイフでワインをきれいに開けると、ロウソクに火を点けました。ロウソクの炎に透かしながら、赤い糸が垂れるようにワインをデキャンタに移していきます。ロウソクの光りに澱が数粒見えたところで止めました。 パソコンに新しいメッセージが表示されました。 『お見事なデキャンタージュです。では、そのワインをカウンターに置いて下さい』 カウンターにボトルとデキャンタを置くと、すぐ別のメッセージが現われました。 『流し台に置いたリーデルのグラスをきれいに洗って下さい』 それを見た一人が言いました。 「やけに人遣いが荒いワインバーだなぁ」 「でも、しばらくは俺たちを食べる気はないようだ」 「確かに、そのようだな。とにかく、グラスを洗おう」 一人が輪切りのレモンでグラスの汚れを落とし、お湯できれいにすすごうとしたときでした。急にドアが開き、置き去りにしたたはずの猟犬が、元気に登場しました。 「やあ、お二人さん、お元気そうで」 犬は、長い舌で鼻を舐めながら、ふざけた顔でハンター達に挨拶をしました。 「お二人とも一生懸命、お仕事をされているようで、何よりです。山猫もさぞや喜んでいるでしょう」「仕事? 一生懸命? 山猫? 一体、どういうことなんだ?」 男が眉をしかめて聞きました。
「いえね、この山猫村は過疎でしてね、どこも人手というか、猫の手が足りないんすよ。 「じゃあなにか、俺達はただのバイトって訳なのか?」 「早く言えばそうです。でも、山猫に食べられるよりマシでしょ?」 それを聞いた男達は、互いに顔を見合わせました。一人が犬に聞きました。 「お前は、雪の中で行き倒れになったんじゃなかったのか?」 犬は、男の顔をニヤニヤしながら見ると言いました。 「あのときは、失礼しました。猟犬としてのお二人との約束は6時までだったんで、6時の鐘で帰らせてもらいやした。しょうがないでしょう? 6時からは遭難救助犬のバイトがあるもんでね」 そう言いながら、猟犬は首にぶら下げた小さな樽を見せました。そこには、こう書いた金属プレートが付いていました。 『遭難救助犬:救助は無料、ワインは有料』 「昔はね、セントバーナードがブランデーの小樽を首に巻いていたんですがね、人手不足というか、犬手不足が深刻でね。それに、ワインブームということで、ブランデーの代わりにワインを入れてるんスよ。本日は、イケムの1990年(*注)です。あのパーカーが99点をつけた超銘醸モノでやすよ。零下2度に冷えてます。酸味と甘味のバランスが絶妙でね、蜂蜜 の香りもキレいに出てますよ。一口飲めば元気モリモリ、グラスで5000円は安いでしょう? それに、この樽、アリエールの新樽ですぜ、旦那」 二人の男は、際限なくしゃべる犬の口元とイケムの入った樽を、複雑な表情で交互に |
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今回の特別な1本
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作者 葉山 考太郎(はやま こうたろう)
湘南地区在住といわれる謎のワインライター。 |