
第28回 銀行員からブルゴーニュ銘醸造家になったジャック
|
|
人はそれぞれ職業を選ぶときに、何かしらきっかけがあることでしょう。ワインを仕事にしている人のほとんどが、ワイン・ラバーでもあり、多くの人に忘れられないワイン、その味や香りがあるのは、ご想像の通りです。
自分の身上話をするのは、恥ずかしい限りではあるのですが・・・、僕は母方の祖父が経営をしていた酒類卸業を継ぐために、大学卒業後に修行としてビール会社に入社しました。進路が決まった大学4年の時に、折角だから将来の仕事に関係のありそうで自分にも興味の持てそうな経験をしてみようと、当時自由が丘にあった小さなフランス料理店でアルバイトをしました。二十数年前である当時の学生の身分ですから、当然ながらそれまでフランス料理店など、足を踏み入れたこともない、禁断の場所でもありましたが、「第二外国語が仏語だったし、チョットは美味しいデザートや食べ物のおさがりにあずかれるだろう・・」という下心も動機として充分にあり、働くことにしました。そんな具合で料理についても、ワインについても何も知らない学生でしたので、通常のサービスは専業の先輩にしていただいていた結果、僕の仕事は大したものではありませんでした。食後にコーヒー、紅茶を入れたり、ウィスキーやポルト酒をグラスに注いだり、忙しい時に皿洗いを手伝ったりといった程度のもので、周囲の他のスタッフに比べるとずいぶん楽をさせてもらいました。
当時はバブルが始まろうとしている80年代中頃のことで、まだワインブームまで10年以上前です。その店には正式なソムリエはいませんでしたが、フロアの責任者がソムリエ的な役割をしていて大変に勉強熱心でした。僕自身は、辛うじてブルゴーニュとボルドーという場所でワインを造っている、と知っていた程度の知識でしかありませんでした。
そんなある日のこと、店の営業が終わった後に、レストランを訪れた輸入会社の人を交えてワインの試飲をしているところに仲間入りさせてもらいました。何しろ20年以上前の記憶なので、何種類のどんなワインを試飲したかなど全く覚えていませんが、1本だけ、妙に印象に残るワインがありました。強烈なインパクトというのではなかったのですが、「何か、今までに味わったことない、上品で不思議な風味」という印象で、『Clos Saint Denis (クロ・サン・ドニ)』と記され、丸い小さな絵柄が黒く描かれていたのだけ記憶に残りました。なで肩の瓶形から、どうやらブルゴーニュのものであることは、わかりました。何年ビンテージなのかなどは、当然全く覚えていませんが、おそらく80年前後のものでしょう。それにしても、何とも心に残る印象的な風味だったので、名前を丸暗記してしまいました。
その後3年半のビール会社修業時代は、関連業種ながらワインには全く関係ない仕事をしていましたが、学生時代に味わったワインに興味が膨らみ、祖父の会社に入る前に1年余だけの約束でフランスでの修行を許されました。1989年初秋、まさにベルリンの壁が破られようとしている時代に、幸運にもヨーロッパに行くことが出来ました。そして、彼の地で学生時代に出会った「妙に印象に残るワイン」が誰によって造られたものであったのかが判明したのです。
生産者は、当時も今もモレ・サンドニ村の第一人者、ドメーヌ・デュジャック。銘柄は、この生産家の代表的なグラン・クリュである『Clos Saint Denis (クロ・サン・ドニ)』でした。ジャック・セイスというオーナー醸造家が腕をふるうワイナリーです。ジャック・セイスは、ブルゴーニュでは大変に珍しいパリ出身の外者でした。彼は製菓会社を営む裕福な父親に育てられ、パリとニューヨークで国際金融の仕事も経験したエリート・ビジネスマンでもありましたが、その後に父の会社を継ぐよりもワインを造ることに夢を抱きました。そして父の財力で銘醸畑を購入して、1960年代にワイナリーを創設したのです。60年代当時のブルゴーニュにおいては周囲と少し違った、国際感覚を持つワイナリーの誕生です。いくら裕福であっても現代で個人が、ブルゴーニュで名だたる特級畑を買いそろえてワイン造りを始める、ということはもはや今日では限りなく不可能に近いことで、現在醸造家を夢見る人たちにとっては羨ましいことです。ただ、当時ブルゴーニュの小さな生産家のワインは、ほとんど市場性がなかったために、そんなことを始める人も他にはいなかったようです。ちなみにワイナリー名の『ドメーヌ・デュジャック (Domaine Dujac = du Jac)』とは、フランス語で『ジャックのワイナリー』という意味になり、創業者のジャック・セイス氏の名前から来ています。大変珍しい名付け方です。
デュジャックのワインが特に個性的なのは、成り立ちだけではなく、その醸造法によります。他のほとんどのワイン造りがブドウを発酵させる際に果梗を取り除いて粒だけを発酵させるのに対し、デュジャックのワインでは、収穫した房ごと発酵槽に入れて発酵させます。 果梗は発酵中の酸化を防ぎながら、発酵がゆっくり進んで、独特な苦味と香りを引き出せるのです。単純な果実香だけでない、複雑な香味は、この独特な製法によって生みだされたのです。ブドウの皮が薄く、元からのタンニン(渋み成分)が少ないピノ・ノワールだからこそ出来る技法です。この技法によって、畑ごとの土壌の個性が風味となってより鮮やかに反映するように感じます。
実はこの技法、簡単なようですが、とても大変な努力が必要とされます。まず、ブドウの果実だけでなく、果梗までが適切に完熟していなければ、青臭く、えぐみのある風味になってしまいます。また、果梗には雑菌がつきやすいのですが、農薬などに頼らず、清潔な状態を保つために、日常の畑仕事をずっと多くしなければなりません。その上で、過度な抽出をするのも許されず、生産される量は必然的に減ることになります。伝統的な技法でありながら、難易度が高く生産性が低いために、今日ではロマネ・コンティ社などを始めとした、極少数の優れた生産者だけが行っています。そこから生まれてくる風味は、単純な果実味だけでなく、土壌特性に果梗の香りがエッセンスを与え、繊細で複雑なニュアンスをもつ独特な魅力に富んだものになるのです。
さて自分の話に戻しますと、何も知らなかった22歳の日本人学生が、いきなりそんな技法から生まれる味わいを感じ取れるはずもなく、ただ単純にそれまでに経験したことのないような高級品を偶然味わったに過ぎないのだと思いますが、デュジャックとの出逢いが、僕にとってワインに興味を持つことのきっかけとなりました。その後の様々な変遷によって継承した酒類卸会社を整理縮小しなければならなくなり、路頭に迷いそうになった時、留学経験が今日のワイン専業となる道筋を与えてくれたのですから、きっかけとなったデュジャックのワインには感謝しなければなりません。
デュジャックの創業者ジャック・セイス氏は、今日も現役ですが、最近徐々に2人の有能で熱心な息子、ジェレミーとアレックスに事業を継承しつつあります。そして、彼等の造るワインは新しい現代の技術も加えて、今日その風味、個性がさらに輝きを増しているように感じられます。