
第1回 フィリップ・ジュリアン
|
![]() |
|
1er tableau, 1945, Philippe Jullian |
とても専門的ですが、楽しみながら読めるワイン本『フランスワイン教本』*1の中には、ワインを味わうにあたって、以下のように書いてあります。
「ワインとの触れあいは、視覚で受ける貴重な手がかりから始まります。」この部分では、ワインという液体そのものの外観がもたらす視覚情報が対象となっています。しかし、これをもっと広く適用してみたいと思います。
ワインをいただく多くの場合(デキャンタージュをしてからいただく場合でも)、私たちはボトルの外観に、まず目を奪われるのではないでしょうか。ワインのボトルがテーブルに運ばれてくる時の華やかさを思い起こしてみてください。私達のワインに対する幸福な視覚体験はこの瞬間から始まっていると言えるでしょう。
ラベルには、美しいシャトーが描かれていたり、家紋らしきデザインがアレンジされていたり、一つ一つ見る度にわくわくしてしまいます。先日、1998年のシャトー・ムートン・ロッチルド、プティ・ムートン、カリュアード・ド・ラフィットを一時にいただく機会がありましたが、それぞれの美味しい楽しさだけではなく、3種類の全く異なるデザイン性に思わず見惚れていました。
☆プロローグ
シャトー・ムートン・ロッチルド*2。数あるフランスワインシャトーの中で、燦然と輝く比類なき存在。ボルドー市から北西、メドック地方の中心に位置し、ジロンド川の三角州とランド県の巨大な森に挟まれた75ヘクタールの畑から作り出されるワイン。
プルミエ・クリュ・クラッセ*3(第一級格付け)として、シャトー・マルゴー、シャトー・ラフィット・ロッチルド、シャトー・ラ・トゥール、シャトー・オー・ブリオンと共に、ボルドーワインの頂点に君臨しています。
ボルドーのシャトーで唯一、1855年の格付けを変更させた事は「伝説」となっています。しかし、シャトー・ムートン・ロッチルドの「伝説」はこれだけではありません。「伝説」とは、さらなる伝説を生み出していくものです。ムートンの「伝説」、それはラベルの芸術と言い換えても良いでしょう。
このコラムでは、「ムートンに愛された画家たち」と題して、ムートンのラベルを飾った画家たちを1年間にわたり、毎月一人ずつ取り上げ、もう一つの「伝説」を少しずつ紐解いていこうと思います。まず第1回目として、絵画ラベルの第一号を担当したフィリップ・ジュリアンの世界へ皆様をご案内いたしましょう。
☆絵画ラベル発祥の経緯
まず始めに、ムートンがどのような経緯で、ラベルをこれほど独創的、かつ詩的な「作品」にしようとしたのかをご紹介いたします。
|
|
|
1924年J・カルリュによる初の絵画ラベル |
1853年、ユダヤ系財閥の名門ロッチルド一族のイギリス分家ナタニエル・ロッチルド男爵は、一族でも一番ワインに興味を持ち、ポイヤック村のシャトームートンを購入しました。
1922年、ナタニエル男爵の曾孫―フィリップ男爵―が、この地の風光や邸宅の美しさに魅せられ、ムートンのワインを第一級のものにしようと志します。彼が20歳の頃の事でした。
彼は次々に斬新なアイデアを持って、ワイン作りに取り組んでいきます。現在ではシャトー(ワイナリー)内での瓶詰めは一般的な方法となっていますが、この当時はまだ、ほとんど行われていない作業でした。シャトーはボルドーのネゴシアン*4(ワイン販売業者)に樽を売り、この取引商が、発酵の管理、瓶詰め、ラベル貼り、販売までを行っていたからです。
ラベルはネゴシアンが考えていましたし、完成した製品を監視する権利を持たなかったシャトーは、ボトルの外観には関心を持っていませんでした。
![]() |
|
|
ジャン・カリュによる一連の商業デザイン画
|
1924年、若きフィリップ男爵は、収穫から発酵、醸造、瓶詰めまで、全ての作業をシャトーで行うことにしました。これは大変重要な改革でした。なぜなら、消費者へ提供された製品に対して、シャトーが大きな関わりと責任を持つことになったからです。こうしてラベルは、起源の保証、品質の保証、そして何よりもムートン・ロッチルドというシャトーの署名そのものとしての新しい働きを果たすようになったのです。
1924年のこの改革を記念して、フィリップ男爵は、当時の人気ポスター作家であったジャン・カルリュ(Jean Carlu,
1900-1997)に同年のワイン用ラベルのイラストを依頼しました。これは、応用芸術の分野におけるキュビスムの影響を、最も見事に表した例の一つと考えられています。
![]() |
|
プチ・ムートンのラベル |
ちなみに、彼の作品のイメージを簡単につかむには、プティ・ムートンのラベルをご覧になると良いでしょう。画面中央に強烈な色彩の大きな葡萄の房が配されていて、LE PETIT MOUTON DE MOUTON ROTHSCHILDの文字が太い線の書体で前面にあしらわれています。私の印象としては、ハードボイルド、よれよれコートがぴったりのピーター・フォークの刑事コロンボ等、を連想します。この葡萄の実の一つに沿って "D’APRÈS JEAN CARLU" と書いてあります。これは、このラベルがジャン・カルリュのデザイン画に着想を得て作られたという事を意味しています。
☆戦争の時代と「勝利の年」のラベル
20年代は「狂った年々」(les années folles)とも呼ばれるように、第一次世界大戦(1914-18)の悪夢からさめた人々は、華やかな享楽を求めました。パリを中心として国際的交流が盛んになり、シュールレアリスムの運動(1924)が起こる一方、ジョイス(James Joyce, 1882-1941)の『ユリシーズ』(Ulysses)が22年にパリで刊行されました。また、ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway, 1885-1961)やフィッツジェラルド(Francis Scott Key FitzGerald, 1896-1940)らがパリに滞在していたのもこの頃のことです。フィリップ男爵が改革を推し進めていたのは、まさにコスモポリチスム全盛の20年代でした。
30年代に入ると、ナチズムの台頭と共にヨーロッパは再び暗雲に覆われ始めます。フランスも例外ではありませんでした。第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、フランスはドイツ軍の占領下に置かれます。国土は疲弊し、人々の心は、やり場の無い不安で一杯でした。しかし1944年6月のノルマンディー上陸作戦を機に、連合国軍は快進撃を始めます。遂に1945年8月、第二次世界大戦は連合国軍の勝利で幕を閉じます。
当時のフランスは、戦争による多くの痛ましい傷跡が残されたままでした。このような状況を慮ったフィリップ男爵は、1945年を「勝利の年」として記念することを思いつきます。平和の回復、人々が生きる喜びを取り戻すことができるように、という願いを込めて、戦時中にイギリス首相チャーチル(sir
Winston Leonard Spencer Churchill, 1874-1965)が掲げたあの有名な「V」(Victory=勝利のV)をモチーフとして、当時まだ無名だった若手芸術家フィリップ・ジュリアンにラベルのデザインを制作させたのでした。これがムートン絵画ラベルの誕生だったのです。
1945年のラベルは、黄色と黒のグワッシュを用いたペン画で、中央に月桂樹の輪とVが配され、さらに葡萄の果実を付けた枝、葉、つるが、豊な生命力を希求するかのように広がっています。Vの中には1945 ANNÉE
DE LA VICTOIRE(勝利の年)と印刷されており、シンプルな中にも、強いメッセージ性を感じさせる作品(オリジナルは縦3.2×横10.2p)です。
☆作者 フィリップ・ジュリアン
では、このイラストの作者、フィリップ・ジュリアンとはどのような人物なのでしょうか。
1921年ボルドーに生まれたフィリップ・ジュリアンは、美術評論家にして画家としても活躍した人物です。日本では、あまりその名を知られていませんが、19世紀末文芸研究としての彼の優れた業績をいくつか翻訳で読むこともできます。
『1900年のプリンス 伯爵ロベール・ド・モンテスキュー伝』(志村信英訳、国書刊行会、1987年。)
彼は、『さかしま』(ユイスマンス著)のデゼッサンと、『失われた時を求めて』(プルースト著)のシャルリュスのモデルとなったと言われている「ソドムの男」モンテスキュー伯爵(Robert
de Montesquieu)を、家系・時代背景・交友といった詳細事項を細かく検討しつつ、その人となりを鮮やかに描き出しています。
モンテスキュー伯爵の写真、肖像画、友人達の写真等も見ることができます。フランス文学、絵画、歴史の基礎知識が必要とされますが、サブカルチャー的スノッブ指南書としての面白みもあると思います。彼は他に、オスカー・ワイルド(Oscar
Wilde, 1856-1900)、ジャン・ロラン(Jean Lorrain)の評伝を書いています。
『世紀末の夢―象徴派芸術』(杉本秀太郎訳、白水社、1982年。)
終焉でもあり出発でもある世紀末というアンビヴァレントな時間を、夢の世界として縦横無尽に論じています。倒錯、エロティシスム、同性愛、両性具有・・・、人間の奥底に潜むほの暗いエネルギーからひたひたと湧き上がるこれらのモチーフが、世紀末という洞窟を進むにつれ、おぼろな光となって私達の目の前をゆらゆらと飛び回る・・・、そんな印象を覚える書物です。
また、Café-Society(Éditions
Albin Michel, 1962.)という小説には、同時代に生きるリュープという女性を巡る物語が、パリ、ロンドン、ニューヨーク、メキシコ、ヴェニスといった様々な都市を舞台として綴られています。1950、60年代のアクチュアリテが感じられる作品です。
画家としての彼の活動を見るためには、彼が数々の作品に提供した挿絵を検索する方法が一番手軽なのではないでしょうか。ガリマール社から1968年に出版された八巻本、プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の『失われた時を求めて』(A la recherche du temps perdu, 1913-27)に、多数のペン画挿絵を寄せた事がよく知られていますが、所蔵している図書館が限られているため、また貴重本扱いとなっている事が多いため、一般の目に触れる事は少ないと思われます。
![]() |
| 『眠るアルベルティーヌ』 「失われた時を求めて」英語翻訳版挿絵 Marcel Proust, Remembrance of things past, |
同じくプルーストの『失われた時を求めて』の1960年からロンドンで出版された英語翻訳版(Remembrance of things
past)があり、彼の挿絵も見ることができますので、ご興味のおありの方はそちらを検索なさる方が良いかもしれません。彼の挿絵を見た印象は、線の濃淡によって遠近が巧みに表現されていながらも、全体が薄いヴェールに覆われたような幻想的な世界が、芸術による過去の感覚をよみがえらせる喜びという主題を邪魔することなく淡く描き出しているように思います。特に、vol.9,
THE CAPTIVE, Part One(第9巻『捕らわれの女 第一部』)の中の眠るアルベルティーヌの描写が、私の一番のお気に入りです。他にもNacsis
Webcatを使って日本全国の大学図書館で手に入る挿絵本として調べてみると、バルザックの『幻影』にも挿絵を提供していることがわかります。
フィリップ・ジュリアンは1977年にパリで亡くなっています。上にもご紹介しました『世紀末の夢―象徴派芸術』の訳者あとがきを読むと、彼は自殺したというように記載されています。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
次回以降はムートンのラベルを飾った5人の女流画家を1人ずつ取り上げる予定です。残りの半年では、出身地の様々に異なる画家たちを紹介していこうと思っています。このコラムをお読みになられた方々が、さらなるワイン道に精進なさりながら、少し文学や絵画の路地を遊歩していただけたら、幸いです。
また、ムートンに愛された画家たちを求めて(A la recherche des artistes aimés par le Château Mouton Rothschild)、様々な国々を訪れたりする際の、美術館情報としてもお役に立てるよう資料を集めていきたいと思っています。
このコラムを通じて、皆様からのご意見、ご感想をいただきながら、自分自身の研究の糧にしたいと思っています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
本文中の人名、事項については可能な限り、欧語表記および生没年を丸括弧に入れました。表記不備等には十分気をつけているつもりですが、間違いがありましたら、お知らせいただければ幸いです。
<参考文献>
この図書目録は網羅的なものではありません。本コラムに直接に関係するものに限られています。ご興味を持たれた方の図書案内としてご覧いただければ幸いです。尚、大学、短大等の図書館、研究室に所蔵が限られている文献もありますので、ご了承ください。
1.
基本検索
フランス文学史:饗庭孝男他、『フランス文学史』、白水社、1997年。
篠沢秀夫、『フランス文学案内』、朝日出版社、1996年。
美術辞典:Encyclopédie
de l’Art, La
Pochothèque, 2000.
『新潮世界美術辞典』、新潮社、1985年。
黒江光彦他監修、『西洋絵画作品名辞典』、三省堂、1994年。
人名辞典:Le
Petit Robert Dictionnaire universel des noms propres,
Dictionnaires le Robert, 1994.
『岩波西洋人名辞典 増補版』、岩波書店、1983年。
百科事典:Le
Grand Robert de la langue française, dictionnaire alphabétique et
analogique de la langue française,
ROBERT, Paul, deuxième édition, Paris, Dictionnaire Le Robert, 1985, 9
vols.
2. 本コラムの関連書籍
Mouton Rothschild L’Art et l’Étiquette, Baron Philippe de
Rothschild SA, 1995.
JULLIAN, Philippe, Café-Society, Éditions Albin Michel, 1962.
Marcel Proust, Remembrance of things past, translated by C.K. Scott
Moncriell and Stephen Hudson, illustrated by Philippe Jullian, Chatto &
Eindus, London, 1960-67, 12 vols.
フィリップ・ジュリアン、『1900年のプリンス 伯爵ロベール・ド・モンテスキュー伝』、志村信英訳、国書刊行会、1987年。
フィリップ・ジュリアン、『世紀末の夢―象徴派芸術―』、杉本秀太郎訳、白水社、1982年。
3. ワイン関連書籍
Précis des vins de Bordeaux, Conseil interprofessionnel du vin de
Bordeaux, 2ème edition, 1997.
アラン・セジュール/ベアトリス・ド・ラフォリ、『フランスワイン教本』、名越康子監訳、二期出版、1994年。
クリストファー・フォークス、『ラルース ワイン通のABC』、吉田利子/葉山孝太郎訳、日経BP社、1998年。
4. Ch.ムートンのホームページ
バロン・フィリップグループ全体のホームページ。
現当主フィリピーヌさんの素敵なメッセージも音で聞ける。ただしファイルが大変重く、時間がかかる。
| 脚注 | |
| 1 フランスワイン教本 |
「ブドウ畑からテ−ブルまで」とサブタイトルのついた、懇切丁寧なフランスワインの入門書。著者のアラン・セジェル氏は元トゥール・ダルジャンのソムリエで、ショップマスター内池や話題のソムリエ佐藤陽一などがパリでワインを学んだときの師である。
二期出版社(戻る) |
| 2 ロッチルド |
一般にワインでは「ロートシルド」と呼ばれているがフランスでは「ロッチルド」と発音される。世間一般には「ロスチャイルド」の呼び方が普通だが、ここではフランス風に「ロッチルド」で統一。(戻る) |
| 3 第一級格付 | 1855年ナポレオン3世がパリ万博開催にともない、ボルドー・メドック地区の特級格付けを命じた。2000以上あるメドック地区のシャトーから当時最高の評価を得ていた僅か61シャトーが5段階の特級格付けとなる。ちなみにムートンはこの時、二級格付けだったが、その後フィリップ男爵の絶え間ぬ努力と政治力で1973年、ただ一度の例外として第一級格付に昇格した。(戻る) |
| 4 ネゴシアン | ワイン仲買人兼輸出業者。シャトーからワインを買い、販売業者に売る問屋的役割。シャトー元詰めの普及によって以前より勢力は小さくなったが、ボルドーでは現在も絶大な力を誇る。特級格付けのシャトーワインは、全てまずこのネゴシアンを経由しないと販売できない仕組み。有名な大手では、カルベ、バルトン&ゲスティエ、ジネステなど。(戻る) |
| 作者 千賀 紗季(ちが さき) 某都内有名大学大学院文学研究科(フランス文学専攻) 博士前期課程修了 ワインライター葉山考太郎氏がCHムートンについての執筆をするときにフランス語文献の原書翻訳を担当したことから本格的にワインに出逢う。 以来、フランスワインをこよなく愛し(男性よりも?)、今日に至る。湘南地区在住。 |