ムートンに愛された画家たちを求めて 千賀 紗季(ちが さき)

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第4回 ドロテア・タンニング
(4
ème tableau, 1965, Dorothea Tanning

 4ème tableau, 1965, D. Tanning

 コーラルピンクの背景に浮かび上がるサラバンド(舞踏)。「羊のような少女達」《petites moutonnes》が手に葡萄の房らしきものを持ちながら、画面いっぱいに跳び回ります。背景より一段濃い赤で縁取られた少女達の姿は、漲るエネルギーが溢れ出しているかのようです。1965年のムートンのラベルを飾る作品(オリジナルは縦8.4×横40p、右下に署名あり)を描いたのは、アメリカ人女流画家ドロテア・タンニング。日本では馴染みの薄い画家かもしれませんが、フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)、テート・ギャラリー(Tate Gallery)、ボストン大学アートギャラリー(Boston University Art Gallery)をはじめ、欧米の数々の美術館で個展を開催しています。彼女自身が語る物語『ドロテア・タニング』(ドロテア・タニング著、荒川裕子訳、彩樹社、1993年。)をもとに、その活動の軌跡をたどり、65年ラベルに迫っていくことにしましょう。

生い立ち

『バースデー』(オリジナルはカラー)
Dorothea Tanning 
こちら側に向って開かれている扉が奥へ
奥へと我々の視線を引き込んでいきます。
美女の手前にうずくまる翼をもった猿は、
図像学的には悪魔を表します

  ドロテア・タンニングは、1912年、アメリカ合衆国イリノイ州北西部の町ゲイルズバーグ(Galesberg, Illinois, USA)で、三人姉妹の一人として生まれました。

ヨーロッパでは第一次世界大戦が2年後に勃発するというこの時代、芸術の分野では、11年にカンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944)、クレー(Paul Klee, 1879-1940)らがミュンヘンにブラウエ・ライター(青騎士、Der Blaue Reiter)を結成し、フォーヴィスム(Fauvisme)に次いでピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)やブラック(Georges Braque, 1882-1963)がキュビスム(Cubisme)を展開し、イタリアでは未来派(Futurismo)が始められ、音楽ではストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)が登場・・・、

「新しい表現形態」を求めて、何かが確実に変わりつつある変革の時代でした。こうした新しい胎動は、第一次世界大戦のため、グループとしての活動は短命でした。しかし革新の息吹を感じさせる動きは途絶えることなく、大きな思想となって継承されていきます。アメリカでは13年に「アーモリー・ショー」(Armory Show, New York)*1 が開催され、アングル(Jean Auguste Dominique Ingres, 1780-1867)以降のヨーロッパ美術と1000点以上のアメリカ美術が展示、紹介された時期でした。

大戦中の16年、ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara, 1896-1963)が中心となってスイスで起こしたダダイスム(dadaïsme)は、広く世界に影響を与え、アメリカでは画家マルセル・デュシャン(Mracel Duchamp, 1887-1968)や写真家マン・レイ(Man Ray, 1890-1976)によるニューヨーク・ダダが起こります。このような時代に、ドロテア・タンニングは生まれたのでした。

『ドロテア・タニング』
(自伝的物語)表紙

ニューヨークでの生活

自伝的物語『ドロテア・タニング』には、ごく普通のありふれた少女だけれど画家を夢見ていた少女時代から、家出同然に単身シカゴ、ニューヨークへ出て、無限の可能性の広がりに飛び込むまでの物語が、魅力的に語られています。父親と見た映画のスケッチ、ゲイルズバーグ公立図書館、ひとりきりで過ごすヴァケーションで画材道具を広げた時の厳粛な気持ち、シカゴで出会ったエキセントリックな人々・・・。どれもが彼女にとっては欠くことのできない大切な出会いだったようです。
そして1935年、ついに憧れていたニューヨークへ辿り着きます。1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所の株価暴落に始まる世界恐慌は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ=ワシントン体制の一応の安定を崩壊させ、軍国主義や植民地政策の激化を促していました。ヨーロッパではヒットラー(Adolf Hitler, 1889-1945?)が驚くべき速さでその勢力を広げつつあり、アメリカでは世界恐慌から立ち直るべく、第32代大統領フランクリン=ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt, 1882-1945)がニューディール(New Deal, 1933-35)を断行していた頃でした。

1936年、ドロテア・タンニングはニューヨークの近代美術館(Museum of Modern Art=MOMA)で行われた『ダダ、シュールレアリスム展』(Fantastic Art, Dada, Surrealism)に衝撃を受けます。彼女の初期の作品は、シュールレアリスムの影響を非常に強く受けています。そして39年7月、彼女はパリへ向かう決意を固めます。シャイム・スーティン(Chaïm Soutine, 1893-1943)、イブ・タンギー(Yves Tanguy, 1900-1955)、マックス・エルンスト(Max Ernst, 1891-1976)、ピカソ・・・、パリ在住の画家らに会うためにです。しかし、フランスの夏といえば、誰もがヴァカンスの事しか考えられない時期。もちろんパリには彼女の尋ね人達が残っているはずもありません。彼らに会うことが出来ないまま、無情にも始まってしまった第二次世界大戦が、彼女をアメリカへと送り返すことになったのです。

命の危険と背中合わせの状況で、彼女は40年にニューヨークへ帰り着きました。以後の彼女の仕事と言えば、メイシー百貨店*2(Macy’s )の広告イラストを描く事でした。日々のつまらないお定まりの仕事・・・、とは言え彼女には、来るべきニューヨーク・シュールレアリスムに対する画家としての十分な準備ができていたのです。当時、ヨーロッパで活躍していたシュールレアリスムの芸術家の多くは、大戦を逃れてニューヨークに亡命し、「シュールレアリスム宣言」(Manifeste du surréalisme, 1924)を書いたアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)を中心に刺激的な創作活動を行っていました。

マックス・エルンストとの出会い

『Max Ernst と Dorothea Tanning』
 beim Schachspiel
(Sedona, Arizona, 1948 - Bob Towers)

42年に運命的な出会いをするマックス・エルンストもその内の一人でした。ちなみに、彼の亡命の手助けをしたのが、ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim, 1895-1979)でした。このペギー・グッゲンハイムという女性は、シュールレアリスムの画家らを豊富な財力で公私にわたり援助し、現代美術作品を収集したことでも有名です。マックス・エルンストとは、短い期間ですが結婚していました。ヴェニスにある彼女の美術館(ペギー・グッゲンハイム美術館Peggy Guggenheim Collection)には、確かにマックス・エルンストの作品を多く見ることができます。
話をドロテア・タンニングに戻しましょう。1942年にマックス・エルンストと出会いってから、すぐに同棲生活を始めました。出会いの日、彼が彼女の部屋を訪ねてきた日、彼は彼女の自画像を見て、Birthdayと名付けます。いくつもの扉が奥に向かって開かれた奇妙な空間、翼を持つ奇妙な四足動物の後ろ、胸をはだけた一人の女性がドアノブに手をかけこちらを見つめて立っている絵。映画『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーに似たとても美しい女性です。後に彼女は、自らが語る二人の物語のタイトルに、同じくBirthday(邦訳タイトルは『ドロテア・タニング』)という言葉を選んでいます。このことからも、この自画像が彼女にとっていかに重要であるかがわかります。 この自画像は、マックス・エルンストとドロテア・タンニングがお互いにお互いを生まれ変わらせる、まさしく「誕生」の時を呼び起こしたものだったのです。

49年、二人はヨーロッパへ旅立ち、パリで懐かしい旧友との再会を果たします。マン・レイや、ダダの創始者ツァラとのエピソード等が、当時の街並み、空気感を生き生きと伝えています。これからの時期、彼女達は、フランスとアメリカとの往来を繰り返します。そんな生活を送る中、1954年にマックス・エルンストがヴェネツィア・ビエンナーレ大賞(Venice Biennale)を獲得します。59年には、マックス・エルンストにフランス国籍が認められ、画家としての地位も確固たるものとなっていました。この有名な夫婦の周りには、いつでも友人や賛同者、もちろん「群がる人々」の輪がありました。

ムートンラベルの誕生と1965年

さて、ようやくムートンのラベルが描かれた1965年にたどり着きました。彼女は53歳になり、夫マックス・エルンストと共に、お互いを刺激し合いながら創作活動に励み続けます。60年代のフランスは、アルジェリア戦争、続いて起こったベトナム戦争、68年の5月動乱と、街中にバリケードが組まれたり、炎が上がったり、文字通り国内外に迷走していた時期でした…。

とは言っても、こうした「歴史的」出来事は、時代を経て流れの中である種の意味づけをなされるのが常です。そして、歴史の中に、原因・結果として、何の感情も引き起こさずに組み込まれてしまいます。最近のニュースを見ていても、悲しいけれど、いずれ誰かが原因・結果を整然と繋いで、それが自分の感じていた事と違っていたとしても、全体としては納得していくのかなぁ、と考えてしまうことがあります。そこで、ここからは少し趣向を変えて書きたいと思います。私がこうした歴史をここでもう一度辿りなおすよりも、もう少しリアルな60年代のフランスの雰囲気を知りたくなったのです。部屋の中をごそごそと探してみて、この時代の空気を象徴する(であろう)一人の人物を思いつきました。

その人の名は、セルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg, 1928-91)。

ゲンスブール、ジェーン・バーキンと一緒に
ゲンスブールのこうした表情に色気を感じます


この名を聞いて、その当時を懐かしむ方も多くいらっしゃることでしょう。私にとって彼はコンタンポラン(contemporain=同時代人)な存在ではなく、彼の死のニュースをなんとなく覚えている、という程度です。それでも、この名は影ある輝きを帯びています。まだフランス語のフの字もなく、お父様がパイロットというお友達のお家でアメリカンヴォーグ誌(Vogue)やハーパーズ・バザー誌(Harper’s Bazzar)を読んで漠然とアメリカに憧れを抱いていた頃、私の中での「フランス的」(厳密には「パリ的」だと思う)というカテゴリーを構成していたのは、小悪魔のお色気たっぷりだった頃のブリジット・バルドーや、映画『なまいきシャルロット』のシャルロット・ゲンスブールなどでした。恐らくこのイメージは、VHSビデオが日常的に家庭に定着した時代だったので、レンタルビデオ店で養われたものだと思います。偶然にも二人ともセルジュ・ゲンスブールにちなんだ女優達だという事が分かり、そこからセルジュ・ゲンスブールという「おじさん」(その頃は、ただのおじさんにしか思えなかったです…)の名前を知りました。

「女性達の中からゲンスブールの姿が現れる」というのも、今となっては「ゲンスブール的」な方向だったような気がします。そしてフランスの事を少しずつ知るにつれ、このおじさんの凄さも分かってきて、気が向いたときにCDを買ったりするようになりました。今もその程度でしかないのですが、今のところ、どのCDもはずれがありません。

「夢見るシャンソン人形」
シングル・レコード
PHILIPS

ゲンスブール初心者の私が、セルジュ・ゲンスブールを語るなんて恐れ多いことですが、ここで私が唐突に彼の名前を紹介したのは、ドロテア・タンニングがムートンのラベルを飾っている65年は、あの「夢見るシャンソン人形」(Poupée de cire, poupée de son:原題は「蝋人形、音の出る人形」の意)が生まれた年だからなのです。ゲンスブールが作詞・作曲し、18歳のフランス・ギャルが歌ったこの歌を、皆さんは必ず一度は耳にしたことがおありでしょう。私はこの曲が大好きです!世界中で350万枚を越える大ヒットとなり、彼は一躍売れっ子になりました。今でもコマーシャルソングとして使われる事が多いこの曲は、いつも新鮮で、初々しいフランス・ギャルのイメージそのものです。「イェイェ時代」というのがあったそうですが(残念ながら私はまだ生まれていません…)、こんなにノーテンキなメロディーに身を委ねまくっていた時代、ウラヤマシイ!

数多くの楽曲でプロデューサーとしての確固たる地位を築き、67年にはあのブリジット・バルドーとの大恋愛 。全くの無知だった頃の私のイメージは先に書いたとおりですが、今でも彼へのイメージの大半は、本人からの印象よりも、やはり彼を取り巻いていた女優、歌手によるものです。悩ましげな息遣いとロリータ的な要素。彼自身の男臭さと対極であるようなこうした少女っぽさが、彼自身とシンクロナイズする時、スキャンダラスでもあり、諧謔的でもあり、矛盾していますが「甘美な幻滅」を呼び起こすように思います。

 65年のムートン・ラベルは水彩絵具と色鉛筆で描かれています。背景に使われているココーラル・ピンクは、絵具チューブから出した色を直接使ったというよりは、何色か混ぜて作ったような微妙な色合い。アメリカ、フランスと転々と居を移している間にも、ドロテア・タンニングは絵画制作のかたわら、リトグラフ、演劇やバレエの舞台装飾、エッチング、小説などを手掛け、私は65年ラベルの形容しがたい色調に、彼女の才能の様々なレベルの融合を感じます。

 シュールレアリスムの影響を強く受けた彼女は、独自の幻想、化け物のような花々、悪魔的少女といった緻密で夢幻的なモチーフで、自らの方法を豊かにしていきました。52年以降、シュールレアリスムから十分に着想を汲み取った後は、輪郭のぼやけた、淡い色調のフォルムで構成された官能的な世界−まさしく65年ラベルにあてはまる点−を描き出しています。今まさに稼動中の夢想によって豊かに育まれたイマージュを結晶させたラベル。

「♪私は蝋人形/音の出る人形/・・・(中略)/私のレコードは鏡/その中に誰でも私を見つけることができる/私は同時にどこにでもいるわ/幾千ものはじける声の破片となって♪」と歌う「夢見るシャンソン人形」に、似たものを感じるのは、私だけでしょうか?ドロテア・タンニングのラベルとフランス・ギャルは、「同い年」「可愛いい!」「夢見がちな女の子(羊)」ということで、強引に納得です(ムートンファンからお叱りを受けそうですが)。

夫マックス・エルンスト亡き後

ドロテア・タンニングから大幅に脱線してしまいましたが、彼女のその後を少し。1975年から夫マックス・エルンストが長い病床生活を送ることになり、翌年4月、20世紀芸術を革新し、驚異と魅惑の幻想的な宇宙を描きつづけたマックス・エルンストは亡くなりました。彼女は80年にニューヨークへ戻り、90歳を越えた今なお、制作を続けています。

一段濃い色で縁取られた子羊娘たち。子羊娘たちのエネルギーが溶け出したワインを口に含めば、私達の周囲もぱっと色づくかもしれません。そして、私達は五感のほどよい緊張と弛緩を楽しみながら、時間旅行が始まることを期待しましょう。65年への旅立ち、私はやはりゲンスブールの心地良いリズムに心も体も揺らしながら…。皆さんはどんな60年代の記憶、イメージを懐かしみながら、あるいは思い描きながら、65年ムートンと出会うのでしょうか。

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 付録:インターネットで見る彼女の作品について

彼女の主な個展は、ボストン大学アートギャラリーで行われたDorothea Tanning/Still in the Studio(1999年3月5日~4月11日)、フィラデルフィア美術館で行われたDorothea Tanning : Birthday and Beyond(2000年11月24日~2001年1月14日)があります。

ボストン大学では、Still in the Studio(1978, Paris)から始まり、20年近い年月の間に制作された作品が展示されました。
フィラデルフィア美術館での個展は、Birthday(1942)を獲得した事を記念して行われたものです。また、イギリスのテート・ギャラリーでは、1998年にEine Kleine Nachtmusik(1943)を所蔵し、記念展覧会を行いました。ここにはA Mi-Voix(1958)もコレクションされています。ここにご紹介しました展覧会、作品等は、各美術館開設のインターネットサイトで詳しい評論と共にご覧いただけます(一部画像未掲載もあります)。
他に、彼女の布帛彫刻作品De Quel Amour(1970、『何という愛』)は、パリのジョルジュ・ポンピドュー・センターに所蔵されています。ドロテア・タンニングと人生を分かち合ったマックス・エルンストの作品は、ニューヨーク近代美術館(MOMA)や、先に触れましたグッゲンハイム美術館(Guggenheim Museum)のインターネットサイトで見ることができますし、MOMAサイトでは彼の作品でe-cardを送ることもできるようになっていて、非常に楽しめます。
日本では、『驚異と魅惑の幻想宇宙 マックス・エルンスト展』に、彼がドロテア・タンニングの誕生日に毎年贈っていた作品『D-ペインティング』が出品されていました。

マックス・エルンストの晩年に共に住んだ南仏の小さな町セイヤンのサイト
(英仏語:彼らの作品のコレクションをしている事などがわかる。サイトを開くと突然グレゴリウス聖歌らしきものが流れて、真夜中に見るとちょっと不気味。Stop Musicというログがあって音は消せるので一安心。) 

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本文中の人名、事項については可能な限り、欧語表記および生没年を丸括弧に入れました。表記不備等には十分気をつけているつもりですが、間違いがありましたら、お知らせいただければ幸いです。 

<参考文献>

この図書目録は網羅的なものではありません。本コラムに直接に関係するものに限られています。ご興味を持たれた方の図書案内としてご覧いただければ幸いです。尚、大学、短大等の図書館、研究室に所蔵が限られている文献もありますので、ご了承ください。

 1. 基本検索

フランス文学史:饗庭孝男他、『フランス文学史』、白水社、1997年。

篠沢秀夫、『フランス文学案内』、朝日出版社、1996年。

美術辞典Encyclopédie de l’Art, La Pochothèque, 2000.

『新潮世界美術辞典』、新潮社、1985年。

黒江光彦他監修、『西洋絵画作品名辞典』、三省堂、1994年。

人名辞典Le Petit Robert Dictionnaire universel des noms propres, Dictionnaires le Robert, 1994.

『岩波西洋人名辞典 増補版』、岩波書店、1983年。

百科事典Le Grand Robert de la langue française, dictionnaire alphabétique et analogique de la langue française, ROBERT, Paul, deuxième édition, Paris, Dictionnaire Le Robert, 1985, 9 vols.

 

2. 本コラムの関連書籍 ・インターネットサイト

Mouton Rothschild L’Art et l’Étiquette, Baron Philippe de Rothschild SA, 1995.

Dorothea TANNING, BIRTHDAY, The Lapis Press, 1986.

ドロテア・タニング、『ドロテア・タニング』、荒川裕子訳、彩樹社、1993

ジル・ヴェラン、『ゲンズブールまたは出口なしの愛』、永瀧達治訳、マガジンハウス、1993

永瀧達治、『さよならゲンスブール』、共同通信社、1992年

3. インターネットサイト

 

©Saki Chigasaki, 2003.


者脚注
 
1 アーモリー・ショー 1913年ニューヨークで開かれた「国際現代美術展」(The International Exhibition of Modern Art、2月17日―3月15日)の通称。レキシントン街にある第69連隊の兵器庫(Armory)で行われたので、この名で呼ばれる。包括的な大きなこの展覧会には、アメリカ人作家の作品を中心に、ヨーロッパの古典作品からキュビスム、フォービスムに至る 
 
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2 エメイシー百貨店  アメリカの有名百貨店。クリスマス映画「34丁目の奇跡」(原題:Miracle on 34th street、監督:ジョージ・シートン、出演:モーリン・オハラ、ジョン・ペイント)は、ニューヨークにあるメイシー百貨店の店舗で、クリスマス・シーズン、本物のサンタクロースを名乗る老人と子供の心温まる人間ドラマ。1947年制作の映画ですが、今だにクリスマス定番映画として君臨しています。サンタクロース役のジョン・ペイントはアカデミー最優秀助演賞を獲りました。その後も何度もリメイクされていて、最近では1994年制作(監督・脚本:レス・メイフィールド、出演:リチャード・アッテンボロー)の同名映画があります。(戻る)
メイシー百貨店のホームページはこちら

 

                      

作者 千賀 紗季(ちが さき)

某都内有名大学大学院文学研究科(フランス文学専攻) 博士前期課程修了
現在、同大学大学院 博士後期課程在籍中

ワインライター葉山考太郎氏がCHムートンについての執筆をするときにフランス語文献の原書翻訳を担当したことから本格的にワインに出逢う。

以来、フランスワインをこよなく愛し(男性よりも?)、今日に至る。湘南地区在住。