ムートンに愛された画家たちを求めて 千賀 紗季(ちが さき)

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第6回 マルク・シャガール
( 6
ème tableau, 1970, Marc Chagall

 6ème tableau,
 19
70, Marc Chagall

 絵画、版画、彫刻…、独特な色彩感覚で、今なお世界中の人々の心を惹きつける芸術家、マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)。彼は非常に多産な芸術家であり、彼の生涯や作品について語りだせば、一冊の本にだって収まりきらないでしょう。既に多くの美術史家や批評家たちによって研究されており、彼を取り上げた著作は沢山ありますし、また彼自身が『我が生涯』において自らの人生を綴っています。そこで今回のコラムでは、シャガールの息子デヴィッド・マックニール(David McNeil, 1946- )がParis Match誌(N.2823)に掲載した短いエッセーをもとに、シャガールの世界を覗いてみたいと思います。

魔法の葉っぱ−飛翔の予感

  私の父は下塗りをするのが大嫌いでした。私が7歳の時、父は私が代わりにその仕事を引き受けるようにするため、白い葉っぱを塗りつぶすと、その葉っぱが舞い上がるんだと話して聞かせました。

 父のアトリエの窓の近くにあった小さなテーブルの上に、私は大人用の立派な絵筆を置いていました。子供達だけが父のアトリエに入ることを許されていました。父は色、ガッシュ(訳注:顔料をアラビアゴムで溶いた不透明な水彩絵具)を準備していて、私は容易に塗ることができました。

 私はそうして作品に取りかかり、神経を集中させて、白い塗り残しのないように心がけました。10枚目の葉っぱを塗り終えても何も舞い上がらないと私が文句を言うと、父は窓を開け、平然としてこう言いました。『多分暑過ぎるんだ。オレンジ色を試してみなさい』。そうして、私は新しい一続きの部分を始めるのでした。もちろん、何も起こりません。私がとうとう我慢しきれなくなると、父は、暑過ぎるからだと言い張り、翌日にもう一度始めてみるようにと言うのでした。

シャガール誕生日

最愛の妻ベラと結婚した年の絵。この浮遊感、心ウキウキとする二人の喜びのあかしですね。(誕生日、1915年、ニューヨーク近代美術館)

 シャガールは1915年にユダヤ人宝石商の娘ベラ・ローゼンフェルトと結婚し、翌年に娘イダが生まれます。ベラとは1909年に出会って以来の関係であり、たびたび彼の画布にモデルとして登場しています。二人の男女が宙にふわふわと浮きながらキスを交わす「誕生日」は、新婚夫婦の浮き浮きとした気持ちと幸福感の証です。40歳を目前にした1922年、シャガールは『我が生涯』を書き上げますが、ベラは夫の自叙伝をロシア語からフランス語へ翻訳しています。第一次、第二次の両世界大戦という激動の時代をシャガールと共に生きぬいた女性でした。しかし第二次世界大戦の終結を迎えることなく、ベラは44年にウィルス性の感染症が原因でこの世を去りました。

シャガール孤独

シャガール自身と彼の民族、そして全ヨーロッパを脅かしている危険を表現しています。(孤独、1933年、テル・アビブ美術館)

 ベラの死という個人的な悲しみは、世界の不吉な事件の推移と重ねあわされ、当時のシャガールの絵は全てベラの死を中心として描かれました。 ベラの死から2年後の1946年、デヴィッドはニューヨークのブロンクスで、イギリス人女性バージニア・ハガード(Virginia Haggard)とシャガールの子供として生まれました。ハガードという女性は1945年から7年間に渡って、恋人としてシャガールと生活を共にした女性です。デヴィッドが名乗るマックニールという姓は、母方の叔父のものです。デヴィッドが叔父の姓を名乗るのは、自らの控えめな性格によるものでもあり、シャガールの名を利用することを潔しとしなかったからのようです。デヴィッドは父と一緒に過ごしたヴァンス(Vence)のアトリエよりも、トランペットとサックスへと心惹かれるようになります。

 やがて、デヴィッドはセルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg)イヴ・モンタン(Yves Montand)、ジュリアン・クレルク(Julien Clerc)、アラン・スション(Alain Souchon)、ジャック・デゥトロン(Jacques Dutronc)などに歌詞を提供するようになり、また自らも歌手として活躍するようになります。

サーカス−魔法の世界

12歳になった頃、私の努力は報われました。父はもっと複雑な事を頼んできたのです。父は巨大な絵を始めていました。サーカスへのオマージュ。8メートル×5メートルぐらいのもの。でも正確な大きさはわかりません。

私は父の絵の中で生まれたような気がします。というのも幾つかの絵は、私を怖気づかせましたし、他のものは私を夢見心地にしたのです。しかしサーカスのシリーズは、全く父自身でした。ロシア時代や聖書の主題よりも、サーカスは最も父の事を語っているものです。

父はこの絵に正真正銘の情熱を捧げていました。毎週日曜日には私を、パリのブランシュ広場に設けられたメドラーノという古くからあるサーカスへ連れて行ってくれました。そこで父はサーカスの舞台のクロッキーを描いていました。このサーカスを父はキャンバスの中の模範としていました。この絵は重要なモノになるんだと思いました。

父は大きな素描の右下に青い部分を計画しました。そこに沢山の人物を配置するつもりでした。しかしまずは2平方メートルばかりに色を塗らなければなりませんでした。この仕事をうんざり思い、アシスタントもなしに仕事をしていたので、父は私に助けを求めたのです。私はそこで、本当に大変なことだと感じました。絵はとてつもなく巨大だったので、油で仕事をすることになりましたが、私の代わりには誰もなり得なかっただろうと納得し始めました。既に私は、父がひとつの作品を構築している最中なのだと知るに十分な年齢に達していました。ルーブル美術館で行われた父の回顧展で、この考えを思いついた日のことを思い出しました。

私は、父の数々の絵画を一つに結びあわせる絆、つまり魔術的な宇宙を理解したのです。ロシア時代のキャンバスから空に飛び立つ人物たちに至るまで。すべてがそこにありました。ついに私は父の詩情を捉えたのです。そうするために父は、私を作品に参加させるように導いたのです。

 デヴィッドが告白しているように、シャガールはまさに絵画における詩人でした。色彩の魔術師であり、見えないものを見えるようにするシャガールの魔法。私は、彼の絵を目の前にすると、心地良いノスタルジックな感情を覚えます。シャガールの絵といえば、パリ・オペラ座の丸天井に描かれている『夢の花束』や、ムートンラベルのような牧歌的でありながら華やかな、ふんわりとした色彩の絵だけではありません。孤独や革命を主題とした暗い色調の絵もあります。

 熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれたという出自、フランス、ロシア、アメリカと住まいを転々とする波乱に満ちた生涯などが、シャガールの芸術活動に大きく関わっていることは、主題やモチーフを見れば明らかです。政治的な不安や心配、彼の民族に対する重苦しい偏見、哀調漂う雰囲気。私のこれまでの生活史からは想像もつかないし、共有したはずもない世界でありながら、なぜか私もシャガールの絵画の世界を生きていたような気持ちになるのです。イメージの全体性と連想の多様性の中には、見る者の魂の放浪を可能とする力があるような気がします。

テレビン油の匂い−もうひとつの世界への扉

シャガール美術館1
 

蒼い空と白い壁、そして庭の緑。芝生に寝転んだ時の爽快感は格別です。

 そうして、父は私のために色を混ぜました。キャンバスの前に組み立てられた足場の上に乗り、私は1メートルの地上を塗りました。私は空想にふけりました。まったく別の世界にいたのです。日中を全て描くことに割き、ゆっくりと、感覚に働きかけるように仕事をし、テレビン油のうっとりとくらくらするような匂いを吸い込みながら、この瞬間がもっともっと可能な限り続くようにと望みました。もし父が私を止めなければ、キャンバス全体を塗りつぶしていたかもしれません。この幸福な1日を終え、続く何週間もの間は、日に少なくとも10回以上、塗った色を指で撫でてみることに費やされました。そしてある朝、キャンバスは乾きました。

 

  シャガールは、1949年から南仏に移り住み、50年にはヴァンスに落ち着きました。多くの芸術家仲間たちと同じようにパリを離れ、コートダジュールが彼にとっての制作の場となったのです。デヴィッドが手伝いをしたのは、このヴァンスのアトリエ。ヴァンスはニースから車で1時間弱の場所にあります。「大聖堂」(Cathedrale)と呼ばれる町の教会堂には、シャガールのモザイク画が飾られています。

シャガール美術館2

これぞまさにコートダジュールの海の色、シャガールブルー。縦3メートル、横2メートルという大きなサイズの絵。迫力あります。創世記1章26節に記されている人間創造の絵です。(La Creation de l'homme,〈Genese I, 26〉,1956-1958)

 シャガールを求めて南仏へ行くならば、ニースにあるシャガール美術館ははずせません。ニースの北に小高い丘があり、海辺の喧騒を避けるように高級住宅街が広がるその一角に、自然と調和した美しい建物があります。それがシャガールの美術館(Musee national Message Biblique Marc Chagall)。この美術館は2003年、開館30周年を迎えました。正式名称にあるように「聖書メッセージ」を伝える作品が展示されています。創世記、失楽園、ノアの箱舟、モーゼの十戒、雅歌など、旧約聖書を主題とした非常に大きなサイズの絵が、真っ白い壁にかけられています。白い壁とガラスによって差し込む光が、シャガールのあの色彩をより一層感動的なものにしています。絵画の他に、タピスリー、ステンドグラス、モザイクもあり、見所満載です。

 私が訪れたのは、南仏の屈託のない太陽が照りつける夏。美術館を見終えてから、庭の芝生に寝転んで、建物と空と緑を眺めた時の映像は今でも目に焼きついています。シャガールの絵に漲るエネルギーと色彩の秘法は、すべて自然に由来する穏やかな波長を持っているように思えました。シャガール・ブルーが南仏の海の色なら、黄色はミモザ、緑はプラタナス並木、赤は太陽…、シャガールの色彩はすべて南仏の自然の恵みの色。まるでもぎたてのフレッシュな果実を味わったように、体の内から元気になれる、そして癒される美術館でした。

描線−心をとかす音楽

そうして父はデッサン用木炭を準備し、大きな柳で編んだ肘掛け椅子に座り、目を細め、唇をきっと結び、青い色を見つめていました。父は集中し、ひらめきを待つ間、こうするのが癖でした。ピカソはこう言いました。『私は探すのではない、見つけるのだ』。私の父は、みせかけの慎み深さでこのように反駁しました。『この私、私は待つのだ』。そして突然、父はこの巨大なキャンバスへ乗り出しました。デッサン用木炭の一つを手に取り、それを二つに割りました。すべてがとても手早く済みました。

木炭を滑らせ、丸を鞠に、円を輪に変えました。直線や正方形や楕円形から、ピエロやブランコ乗りや馬やバイオリン弾きの姿などが生まれ出るのを見ました。魔法にかけられたように、私は一つのサーカスが立ち上がるのを見ました。父が木炭の最後の破片を置く前から、そこでは人々が拍手喝采し始めていました。そして後ずさりながら、父は再び腰掛け、疲れきって、両手をぶらぶらさせ、その姿はまるでラウンドを終えたボクサーのようでした。サーカスは1時間足らずで出来上がりました。一言も発せずに。時々父はモーツァルトやシューマンを聞きました。特に夜には。というのも、父は夜遅くに絵を描くのが好きだったのからです。しかしサーカスは違いました。父は完璧な静寂を必要としました。音楽は描線の中にあったのです。

 『この私、私は待つのだ』。1970年のムートンラベルのシャガールも、「待っている」のでしょうか。でも、何を?

 このラベルはワインそのものよりも、フレッシュな果実を巡る物語が描かれています。中央の一人の少年をはさみ、画面左にはブドウを啄ばむツグミ、右には少年にブドウを差し出す母親。これらの画面はまるで、少年の空想の世界を表しているかのようです。ツグミがブドウを啄ばむ楽しい季節を待ち焦がれ、食卓にブドウが昇り、家族の団欒が華やぐ季節を心待ちにする。この幸福感に満ちた牧歌的で家庭的な雰囲気は、ワインの熟成を優しく見守り、待っているかのようです。そして私達は、この万華鏡のように美しいラベルを目の前にして、夢の世界の扉をゆっくりと押し開けながら、ボトルを開け、グラスに注ぐ瞬間を待つ。待ちに待った楽しい時間が過ぎる内に、誰かが「泥酔」するのをシャガールはラベルの向こうで待っているのかも(ツグミgriveが収穫したブドウを好んで食べることから、フランス語の古い表現では「ツグミのように酔っている être soûl(e) comme une grive 」といいます)。

 シャガールのお茶目な洒落がこのラベルには詰まっています。ワインは様々なシーンで楽しみながら「待つ」飲みものなのですね。

完成−かけがえのない時間

私がこの絵を再び見た時、それは仕上がっていました。そうこうするうちに私は学校に戻らなければなりませんでした。私の塗った下地の青は、人物達の下に埋もれ、ほとんど消え去っていました。今、私だけがそれを知っています。

 デヴィッドは2003年3月にガリマール社から、父であり画家であったシャガールとの思い出を素地に、《Quelques pas dans les pas d'un ange》を出版しています。自伝的作品と思いきや、画家シャガールのプライベートライフの新たな秘密の暴露といった種のものではなく、あくまでも「語り手」として、お話しを聞かせるようなタッチで描写されているとの書評をL'EXPRESS LIVREのページで読みました。デヴィッドがこの本を書くきっかけとなったのは、ピカソの孫娘マリナ・ピカソが、画家ピカソについて書いた本。彼女の本を読むことは、デヴィッドにとって苦しいことだったそうです。というのも彼女の本には、人々がしばしば抱いている芸術家像−家庭内の暴君としての芸術家−があったためで、この本を読んだデヴィッドは、自らの思い出をもとに本を書く必要性を感じたのです。デヴィッドはこう言っています「私が彼女(マリナ・ピカソ)と同じような幼少期を送ったと思っていたかもしれない私の息子の誤解を解きたかったのです」。

  私はまだデヴィッドのこの本を実際には読んでいませんが(取り寄せ中です!)、L'EXPRESSの書評や、Radio Franceの放送、そしてParis Match誌のエッセーを読み、今から期待に胸を膨らませています。前回取り上げたバルテュスの時にも感じましたが、デヴィッドやハルミ・クロソウスカ・ド・ローラのように「芸術家の子供」という存在は、どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせているように思います(ミーハーで野次馬的な発想とのそしりを受けかねませんが…)。マリナ・ピカソのように「家庭内の暴君」像の流布があれば、なお更のことです。しかし、デヴィッドのエッセーに見る父と息子の微笑ましい交流の様子は、独特でありながら、決して特別ではないのです。シャガールの名は、日本ではあまりにも大きいので、このコラムで取り上げるのに躊躇していましたが、今回何気なく見つけたデヴィッドのエッセーがきっかけで、私自身が新たなシャガール像を感じることができたように思います。


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本文中の人名、事項については可能な限り、欧語表記および生没年を丸括弧に入れました。表記不備等には十分気をつけているつもりですが、間違いがありましたら、お知らせいただければ幸いです。 

<参考文献>

この図書目録は網羅的なものではありません。本コラムに直接に関係するものに限られています。ご興味を持たれた方の図書案内としてご覧いただければ幸いです。尚、大学、短大等の図書館、研究室に所蔵が限られている文献もありますので、ご了承ください。

 1. 基本検索

フランス文学史:饗庭孝男他、『フランス文学史』、白水社、1997年。

篠沢秀夫、『フランス文学案内』、朝日出版社、1996年。

美術辞典Encyclopédie de l’Art, La Pochothèque, 2000.

『新潮世界美術辞典』、新潮社、1985年。

黒江光彦他監修、『西洋絵画作品名辞典』、三省堂、1994年。

人名辞典Le Petit Robert Dictionnaire universel des noms propres, Dictionnaires le Robert, 1994.

『岩波西洋人名辞典 増補版』、岩波書店、1983年。

百科事典Le Grand Robert de la langue française, dictionnaire alphabétique et analogique de la langue française, ROBERT, Paul, deuxième édition, Paris, Dictionnaire Le Robert, 1985, 9 vols.

 

2. 本コラムの関連書籍 ・インターネットサイト

Mouton Rothschild L’Art et l’Étiquette, Baron Philippe de Rothschild SA, 1995.

ニースにあるシャガール美術館のサイト http://www.musee-chagall.fr/

Le Message Biblique, petit guide Musée national Message Biblique Marc Chagall, ISBN:2-7118-0691-X.

インゴ・F・ヴァルター/ライナー・メッツガー、『マルク・シャガール 詩としての絵画』、ベネディクト・タッシェン出版、1993年。

Patis Match, n.2823, du 26/06 au 02/07/2003.

L’EXPRESS LIVREのホームページ http://livres.lexpress.fr

3. ワイン関連書籍
Précis des vins de Bordeaux, Conseil interprofessionnel du vin de Bordeaux, 2ème edition, 1997.
アラン・セジュール/ベアトリス・ド・ラフォリ、『フランスワイン教本』、名越康子監訳、二期出版、1994年。
クリストファー・フォークス、『ラルース ワイン通のABC』、吉田利子/葉山孝太郎訳、日経BP社、1998年。 

©Saki Chiga 2003.


                      

作者 千賀 紗季(ちが さき)

某都内有名大学大学院文学研究科(フランス文学専攻) 博士前期課程修了
現在、同大学大学院 博士後期課程在籍中

ワインライター葉山考太郎氏がCHムートンについての執筆をするときにフランス語文献の原書翻訳を担当したことから本格的にワインに出逢う。

以来、フランスワインをこよなく愛し(男性よりも?)、今日に至る。湘南地区在住。